日本史探究・定期試験・大学受験に役立つ - キリスト教布教と鎖国の背景

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大航海時代

大航海時代

1549年にフランシスコ=ザビエルが鹿児島にキリスト教を伝えました。また、その少し前に鉄砲を積んだ中国船がポルトガル人を乗せて種子島に漂着しました。これらの背景にあるのは、コロンブスの西インド航路、バスコダ=ガマのインド航路の発見、マゼランとその乗組員の世界一周などで航路が発見され、ヨーロッパ人が東南アジアまで来ていたことやヨーロッパで起こった宗教改革があります。

キリスト教の布教

 フランシスコ=ザビエル(スペイン人)は、フィリピンで日本人のアンジローに会い、その後鹿児島に上陸し布教を始めましたが、京都では戦国時代ということもありそんなに多く信者は集まりませんでした。ザビエルが帰るまで500人以上が信者になったと考えられています。その後、各地にキリシタン大名が現れ、教会が建てられ、江戸の初期には数十万の人が信者になったとされています。全てが純粋な信仰を持って信者になったのではなく、南蛮貿易の利益を得るために信者になったものもいました。
 貿易と布教が結びついてキリスト教宣教師がポルトガル船に乗って日本にやってきて、布教を始めて行きました。

織田信長

織田信長

 戦国時代、織田信長は仏教勢力と激しく衝突していました。彼はそれらの仏教勢力に対抗するためにキリスト教を保護していきました。京都に入ったルイス=フロイスらに京都での布教を認め、教会やセミナリオが作られるようになりました。
 戦国大名は宣教師を通じて南蛮貿易で利益を得て、鉄砲や火薬などを手に入れていき、キリシタン大名となった大村純忠は、長崎をイエズス会に寄進し有馬氏も浦上村を寄進しました。
 また、4名の少年たちを天正遣欧使節をローマ教皇の元に派遣し彼らはローマ教皇との謁見を果たしました。

豊臣秀吉

 豊臣秀吉は、キリシタン大名が長崎の土地をイエズス会に寄進し長崎が軍事の拠点になり、また、数十万の日本人が奴隷として海外に売られていることを知り、1587年に「バテレン追放令」を出して、キリスト教を禁教にしました。
 さらに、1596年のサン=フェリペ号事件によって、ポルトガル人が「スペイン人たちは海賊で、世界各国を征服して、日本の征服も考え測量に来た。」ことや荷物を没収されたことに一人の乗組員がいらだち、「スペインは日本を征服するために宣教師を送り込んだ。日本もスペインに征服される。」と言ったことが秀吉に報告されています。
 このような事情から、1597年に豊臣秀吉は長崎で信者や宣教師に見せしめのために聖人26人を処刑しました。
 しかし、秀吉は南蛮貿易の利益を上げることを考えていたために徹底したキリシタンの取り締まりにはならなかったのです。

徳川家康

 徳川家康もまた、朱印船貿易を活発に行い貿易の利益をあげようとし、スペイン・ポルトガルとの南蛮貿易も盛んに行われていました。当初はキリスト教の布教に寛容でしたのでキリスト教の信者は70万人以上に達しました。
 しかし、1609年に日本の朱印船の乗組員60名がポルトガル船とトラブルになり、マカオで殺害されました。これに対して日本は、長崎に入稿したポルトガル船を撃沈させました。

徳川秀忠

 徳川秀忠の時代になると、キリスト教徒たちが、日本の各地の寺社を破壊する事件が起きました。そのため1612年と13年には禁教令がだされました。1620年に二人の宣教師を乗せた朱印戦が長崎に入港しました。長崎奉行の取り調べで二人の宣教師は、「私たちは商人である」と嘘をついて言い逃れをしようとしました。その後、船長と二人の宣教師は火あぶりの刑となりその他の乗組員も処刑されました。
 この事件が、幕府にキリスト教への不信感を決定づけました。

元和の大殉教

 1619年には京都で52名の信者が火あぶりで、1622年の元和の大殉教では55人のキリスト教信者が処刑されました。
 こうして、キリシタンは弾圧されていきました。そして、キリシタンの最大の反乱が起こり、江戸幕府は鎖国へと舵を切っていきます。

島原の乱

 京都でのキリシタン弾圧や元和の大殉教をきっかけとしてキリシタンへの弾圧は激しくなりました。そのような状況の中で、天草・島原の乱が起きました。天草・島原地方は、キリシタン大名である有馬晴信・小西行長の領土でキリシタンが多く住んでいましたし、帰農する武士も多く住んでいました。その地域を治めていた領主が板倉氏です。板倉氏は、この地域で重税やキリシタンへの締め付けを厳しくし、拷問や殺害をおこなっていきました。それに耐えきれずにいた農民たちは一致団結して一揆軍を作り、板倉氏の治める島原城へと天草四郎時貞を大将にして攻撃を開始しました。その時の将軍は、徳川家光でした。
 しかし、島原城は落城せず、一揆軍はそのまま廃城となっていた原城へ移動し、援軍として到着した幕府軍12万人と一揆軍約30,000人が戦いました。その結果、一揆軍は全滅し全て殺されました。

鎖国の完成・徳川家光

 家光の治世である1641年に平戸のオランダ商館を長崎・出島に移して鎖国が完成しました。この後、布教を目的としないオランダと貿易をすることになったのです。
 鎖国の間も、長崎ではオランダ・中国の清と貿易、対馬では宗氏が朝鮮との国交を回復し朝鮮(朝鮮通信使)と幕府の間を取り持ち、松前藩はアイヌとの独占的な貿易をし、島津氏は琉球を征服し朝貢貿易で利益を得ていきました。鎖国中はこの4つの地域で日本は貿易や交易を行っていきました。

 このように、キリストと鎖国は密接に結びついていたのです。



 

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