
この写真は、明日香にある飛鳥寺の飛鳥大仏です。和尚さんからの説明がとても面白く、「この大仏の前で聖徳太子は毎朝お参りしてから馬で法隆寺に向かった。聖徳太子が座っていたところは、あなたが座っているところですよ。」聖徳太子が座っていた場所が私の座っている場所だと知って感動したことを覚えています。
1 古代国家の形成
- 6世紀の朝鮮半島と倭
百済…高句麗の圧迫で南下・加耶(任那)に進出・ヤマト政権に接近
512…百済が加耶西部地域(任那四県)に支配確立
513…百済から五経博士が渡来
538…百済から仏教伝来(公伝・戊午説)
新羅…強大化して百済と対立、加耶に進出
527…筑紫国造磐井が新羅と結んで反乱
墓は岩戸山古墳とされる
562…新羅の加耶支配(任那滅亡)により、ヤマト政権は朝鮮半島の拠点を失う
・地方
527:筑紫国造磐井の乱
有力農民層の台頭
屯倉や子代・名代の部を設置し、地方支配を強化
・中央 大伴金村(大連)
武烈天皇の死後、継体天皇を北陸から擁立
加耶西部に対する支配確立を物部尾輿に責められ、失脚(540)
物部氏(大連・軍事担当) 物部尾輿・物部守屋
蘇我氏(大臣・財政担当) 蘇我稲目・蘇我馬子
蘇我氏は、財政権を掌握…三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)の管理
崇仏論争 蘇我稲目(崇仏派)と物部尾輿(排仏派)が対立
(a 蘇我馬子 )が(b 物部守屋 )を滅ぼし(587)、政権を独占
崇峻天皇暗殺(592)後、推古天皇(馬子の姪)を擁立
推古天皇の外交と内政

推古天皇(592〜)…厩戸王(聖徳太子)・大臣の蘇我馬子の協力体制
墓は石舞台古墳?
目的…天皇中心の官僚制の確立
603年 (a 冠位十二階 )の制定
位階…徳・仁・礼・信・義・智(各大小)
目的…人材登用・氏姓制度の世襲制打破
除外…蘇我馬子

604年 (b 十七条憲法 )の制定
性格…官僚の心得(崇仏の明確化)
影響…儒教・仏教・法家思想
620年 国史の編纂『天皇記』…乙巳の変で焼失し、現存せず
『国記』…乙巳の変で焼失は免れたが、現存せず
・対外政策
背景 隋の南北朝統一(589)
目的 朝鮮対策・中国文化の摂取による朝廷権威の高揚
600年 『隋書』倭国伝に記事(日本書紀)に記事
607年 (a 遣隋使 ) …小野妹子を派遣し、隋皇帝の煬帝に国書を提出
形式…中国に臣属しない立場を主張し、煬帝の不興を買う
608年 答礼使の裴世清が来日(隋の高句麗遠征が背景)
裴世清の帰国に、留学生の高向玄理や学問僧の南淵請安・旻ら随行
意義 留学生らが新知識を伝え、大化の改新に影響を与える
614年 犬上御田鋤を派遣
7世紀の東アジアと倭国
中国(a 唐 )が隋を滅ぼす
…(b 律令 )に基づく強力な政治のしくみ
倭 … (c 蘇我蝦夷 )( d 入鹿 )父子が権力を持つ
643年に厩戸王の子の山背大兄王の一族を滅ぼす

乙巳の変で、蘇我氏が滅びました。現地に行くと理解できますが、中大兄皇子の明日香板蓋宮に、蘇我氏は甘樫丘に邸宅を構えていたと考えられています。この2つの地点の直線距離は、およそ600メートル前後だと思います。こんなに近くに、大勢力をもった蘇我氏がいたら、そりゃ天皇はいつ滅ぼされるかという心配をすると思います。戦って勝つ見込みがあれば戦うと思いますが、互角かそれ以上なら別の方法、つまり暗殺を計画します。そういう訳で、綿密な計画を立てて実行に移して成功するわけです。この写真は、蘇我入鹿の首塚です。宮廷で首をはねられた蘇我入鹿の首は、約600メートル飛んでここに落ちたと言われています。落ちた場所が首塚となっていまに至っているのです。
645年…(e 乙巳 )の変
皇極天皇の子の(f 中大兄皇子 )と(g 中臣鎌足 )が
蘇我氏を滅ぼす

左上は、皇極天皇・真ん中少し左上に入鹿の首、右で剣をふるっているのは中大兄皇子、左で弓を持ち矢を背負っているのは中臣鎌足
(a 大化 )の改新
皇極天皇が即位し中大兄皇子は皇太子となり政治を行う
日本で初めての元号(b 大化 )
都を飛鳥から(c 難波宮 )に移す
改新の詔 ① 公地公民 ② 行政区画の整備 ③ 戸籍・計帳⇨班田収授 ④ 全国一律の税制
(d 評 )… 全国の行政区画 国造などの地方豪族を役人にした