授業で安土桃山時代を取り扱うのと大河ドラマが豊臣兄弟ということもあって一夜城に行ってきました。
小田原厚木道路を下りて、熱海方面に向かうと右に曲がると「一夜城」という標識がありました。曲がってから直ぐに坂道になり、道沿いに武将の紹介の案内板がありました。約10分ほどで一夜城の駐車場に着きます。駐車場に入る前には右手に迫力のある石垣が目に飛び込んできます。
宇喜多秀家

備前岡山城主宇喜多直家の子、秀吉の幼女となった前田利家の娘を妻とし両家と婚姻関係となり、備前・美作領国と備中東半分の約50万石を治めた。小田原包囲網では、小田原の西方、水之尾付近に陣場を構えたと言われている。合戦の最中、氏直の弟氏房に酒や肴を贈って籠城の苦労を慰め、伊豆の江川酒を返礼として贈られ、氏房に講和を勧めたとする物語が伝えれれている。
徳川家康

三河岡崎城主松平広忠の子。長い人質生活の後、岡崎城に戻る。織田信長と同盟して東海・中部一帯に勢力を伸ばした。娘の督姫を北条氏直に嫁がせ、北条氏とともに豊臣秀吉に対抗したが、その後秀吉と和睦し、氏直も秀吉に従うことを勧めた。小田原攻めが決まると、大軍を率いて先方として出陣し、小田原城の北東、酒匂川の西岸に陣をしいた。秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝ち、征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開いた。
家康の陣場跡には今でも土類の一部が残り、江戸時代に建てられた石碑や東照宮の建物がある。
千利休

和泉界の納谷衆千与兵衛の子。堺の町衆の間で流行していた茶の湯にひかれ、武野紹鴎らに学ぶ。初め与四郎、後に宗易と名乗った。茶人としての名声を高めて織田信長の茶頭の一人に加えられ、ついで豊臣秀吉に使えて利休の名を授かるなど、天下の茶匠と言われるほどになった。小田原合戦でも秀吉に同行し、側近の一人として活躍する一方、陣中で茶会を催し、諸将の苦労を慰めた。茶道の一つである「侘茶」で使用される竹の花生けは、小田原合戦に随行した利休が茶会の際にその場で作ったことが始まりであると言われていまる。
淀殿

近江小谷城浅井長政の娘、幼名お茶々、母は織田信長の妹お市の方。信長の死後、重臣柴田勝家と再婚した母と共に越前北庄に移った。勝家が豊臣秀吉に敗れると、秀吉のもとに移り、やがて側室となり、長子鶴松を身籠った。喜んだ秀吉から淀城を与えられ「淀殿」と呼ばれた。小田原合戦に持久戦で臨んだ秀吉は、集まった諸大名の苦労を思いやり妻たちを呼ばせ、自身も淀殿を呼び寄せた。石垣山城井戸曲輪の井戸は「淀殿化粧の井戸」と伝えられている。
秀吉の死後は、遺児秀頼の生母として大坂城にあったが、大坂の陣で敗れ落城するとともにその生涯を閉じた。
豊臣秀吉

織田信長に仕えて活躍。信長の後継者となり天下統一を進めた。四国・九州を平定した後、東国の攻略に乗り出した。容易に従わない北条氏を討ち滅ぼすべく、諸大名に命じ大軍を率いて関東に攻め入った。石垣山に城を築いて本陣とし、小田原城を攻め、北条氏を滅ぼして関東を平定した。この城を「太閤の一夜城」といい秀吉が一夜にして築いたと言われているが、実際には80日を費やしている。小田原合戦によって東北の諸勢力を従い、全国平定を成し遂げた。
案内図

一夜城・城内

秀吉から家康に関東への移動について話した時の風景

一夜城からの小田原城への

