日本史探究・定期試験・大学受験に役立つ鎌倉歴史散歩(7)得宗の専制

得宗の専制
得宗:北条氏嫡流(ちゃくりゅう)の当主の呼称/義時が「得宗」と号したことに由来
得宗及び内管領、(a 恩内人 )(得宗の家臣)らが寄合で幕政の重要事項を決定

執権政治(評定会議)の形骸化
専制の萌芽
北条時頼:出家・執権辞職(1256)後も実権を掌握
北条時宗:北条氏の権力が集中し、得宗の地位強大化

得宗専制の確立
北条貞時(9代執権)
得宗の権威絶対化/内管領が幕政主導
(b  霜月騒動      )(1285)平頼綱の讒言(ざんげん)で安達泰盛一族滅亡

平頼綱:内管領(御内人の代表)
安達泰盛:有力御家人(貞時の外戚)
平禅門の乱(1293)平頼綱が貞時に滅ぼされる
鎮西探題:北条氏一門を任命
全国の守護の半分以上を北条氏一門が占める

霜月騒動

霜月騒動は、得宗の直属家臣(御内人)である平頼綱と御家人の筆頭である安達秦盛との間で起こった騒乱で、5代執権である北条時頼が得宗(北条氏の本家)の独裁政治を始めた時に起こりました。

御内人の権勢は得宗の権力が大きくなるにつれて強くなっていきました。北条時宗が亡くなり、嫡男・貞時(14才)が9代執権となった時、貞時の乳母の夫である平頼綱が内官僚(得宗の家宰)として御内人の筆頭になりました。北条氏家臣団の筆頭である平頼綱と幕府創立期時代からの有力御家人で御家人の筆頭である安達泰盛の間には対立関係があり時宗の死後、その対立がよりいっそう強まっていきました。

安達泰盛は、北条の縁戚(泰盛の娘が時宗の妻)として権威を保っていました。それが、平頼綱にとって北条氏の独裁政治を行なっていくのに邪魔でした。
平頼綱は、政治の実験を握るために幼い貞時を立てました。平頼綱は、貞時に「安達秦盛の嫡男・宗景が源氏姓を名のり、将軍になろうと陰謀を企てている」と吹き込みました。その時、貞時は15才でした。平頼綱は、政治経験が浅く思慮も浅い義貞の承諾をとりつけ、弘安8年(1285)11月17日軍を安達一族に向けました。

安達一族は頼綱軍を迎え撃ち乱戦となりました。しかし、安達一族は敗退し、安達秦盛、宗景は殺され、幕府創立期時代からの有力御家人の安達一族は滅亡しました。そして平頼綱は安達氏と関係のある御家人約500人を徹底的に殺害しました。

この騒動は霜月(11月)に起こったので霜月騒動と言われています。

その後、御家人の政治勢力は完全に押さえられ、権力を握った平頼綱は一族や与党を重用して専制政治を行いました。しかし成長した貞時により正応6年(1293)4月22日、平頼綱、次男・資宗を滅ぼされ、長男・宗綱を佐渡に配流されのです。(平禅門の乱)

         

         

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