先日、鎌倉を散策してきました。いろいろと見て回りましたが、ここでは、歴史を学習する上でのポイントも中心にブログでわかりやすく散策していきたいと思います。

鶴岡八幡宮で式典を終えた源実朝は、この階段の途中にある銀杏の陰に隠れていた源頼家の子である公暁によって殺害されました。
※(a )〜は、定期試験・大学入試に必要な基本歴史用語です。
1 平氏政権への反発
「平氏でなければ人でない」という言葉が表しているように、平安時代末期には平氏が全盛をほこっていました。しかし、平氏政権に対しては不満が溢れていました。貴族・大寺院・地方武士たちが平氏に対して平氏を打倒しようと動き出したのです。
治承・寿永の乱(1180〜85)が起きます。
背景:平氏に対する貴族・大寺院・地方武士団の不満
1177年:(a 鹿ヶ谷の陰謀 )が起きるが、藤原成親・俊寛・西光の平氏打倒計画が露見し処罰されました。
1179年:平清盛は後白河法皇を幽閉、反対派貴族を解任
1180年:外孫の安徳天皇が即位
1180年:( b 以仁王 )(後白河方法の皇子)の平氏追討の令旨を全国の源氏を中心に送りました。
それを受け源頼政が挙兵したが、宇治で戦死しました。以仁王も戦死。その後、内乱が全国化しました。
2 源頼朝の挙兵(平治の乱)

源頼朝の父である源義朝は、平氏によって京都鴨川の河原に追い詰められ、愛知県美浜町野間で最迎えましたた。
父とはぐれた源頼朝は、平氏に囚われましたが、命は助けられ伊豆韮山蛭ヶ小島に流されました。そこで北条政子と結ばれ、北条氏の力を得ました。
石橋山で挙兵しましたが、その数300騎あまりでした。敵の数は2000とも3000とも言われていますが、敵の梶原景時に発見され、これまでかと思われたが見逃され真鶴から千葉へ渡りました。千葉に渡った頼朝は、軍勢を拡大しながら鎌倉に入り鎌倉幕府の仕組みを整えていきました。
源頼朝の挙兵:関東の国衙を掌握し、荘園・公領支配
武士の所領の支配権を保障して主従関係を結び、御家人へ
1180年:( c 侍所を設置 )御家人の統率・和田義盛を別当
1183年:後白河法皇「寿永二年十月宣言」 東国支配権を承認
1184年:公文所:(後、( d 政所 ) に改める)・大江広元

大江広元の墓は、鶴岡八幡宮から歩いて約30分ほどのところにあります。
問注所を設置・三善康信
1185年:守護・地頭の設置…軍事警察権の全国化・源義経の探索・追討を名目
( e 兵糧米 )(段別5升)の微収権、翌年撤回・在長官人の支配権
1189年:奥州平定:義経隠匿を口実に奥州藤原氏(藤原泰衡)を滅ぼす

1190年:頼朝上洛、権大納言・右 近衛大将に就任(すぐ辞職)
1192年:頼朝・征夷大将軍に就任(後白河法皇の死後、御鳥羽天皇による)